なぜ比較は愛ではないのか
外国人が日本人を見て不思議に思うことはいつくかある
わけですが、その中でも宗教関係は得に多いと思います。
たとえばキリスト教でもないのに教会で結婚式を挙げたり
することです。
そこで誓いの言葉を牧師さんの前で言う。
「病めるときも貧しきときも・・・」というあのセリフ。
しかし、このセリフはおもいっきりウソを言っているカップルは
多いでしょう。
なぜなら、結婚相手を比較して選んで結婚した人、つまりは
収入などで選んで結婚した女子は貧しくなったら金の切れ目は
縁の切れ目とばかりに離婚するに違いないのだから。
たとえば親子の愛というものがあります。
親というものは、自分の息子がどんなにバカ息子であっても
それはそれで可愛いものでしょう。
自分の娘の容姿がかなりひどい状態であっても、それはそれで
可愛いものでしょう。
自分の子供なわけですから。
でも、自分の子供なのだから可愛いのは当然なのでしょうか。
ではなぜ当然なのか。
それは他人の子供と比較してないからでしょう。
他人の息子の方が親の言うことを良く聞いて良く出来た息子
であったからといって、自分の子供と取り替えたりしたいとかは
おもわないでしょう。
他人の娘がすごく可愛いからといって、自分の娘と取り替えよう
とはしないでしょう。
それは、他人と比較してないからです。
親が子を思う気持ちは真の愛に近いと思うのです。
ゆえに、比較するのは愛ではない。
というと、学校の成績で他人の子供と比較するとか言い出す人も
いるかもしれませんが、だからといって他人の子供と取り替えたり
はしないでしょう。 行動には移さないでしょう。
男と女の場合、現れた人が今の相手より比較して上をいっていたら
スット行ってしまうでしょう。
まるでモノを扱うように取替えをするでしょう。
そこには愛はない。 ただの見栄と欲望しかない。
比較でしか人を判断できない人は、人を愛せない。
比較されてる人は、本当には愛されていない。
愛とは崇高なもの。
真実の愛は現代にどれくらいあるのだろうか。
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